「脱成長コミュニズム」は本当にマルクスの遺志なのか?

斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』に対する2024年に出たクリティカルレビューです。おもしろい。
keene 2025.06.13
誰でも

パリに2泊3日で行って参りまして、やはり旅行はいいなぁと思いつつも、いつものルーティーンが崩れるのがちょっと難儀ですな。睡眠負債を返して、溜まった大学院の課題を大急ぎで対応して、ってやるとプラス2~3日かかります。旅行中も朝3時間は作業に充てるみたいにしてみようかな。

さて今回は、2020年に日本で出版されて、国内で50万部を超えるベストセラー、国外でも多数翻訳版も出版されている『人新世の「資本論」』についてです。僕がより環境問題に関心を持つきっかけになった本でもあるので、僕をドイツの大学院に追いやった元凶とも言える本です。

しかし、今回の論文「A critique of Saito’s Slow Down」では、著者テッド・トレーナー氏が斉藤氏に一石を投じておりまして、斎藤氏の「脱成長コミュニズム」が論理的に誤っている!と厳しく批判しております。

近年メディアでよく見る、その場限りの論破合戦のようなものではなく、きちんとした根拠をもとに批判をしているので、広い視野を持つために大変参考になります。

斎藤幸平氏の「脱成長コミュニズム」とは?

まず、斎藤氏の『人新世の「資本論」』で提唱された「脱成長コミュニズム」の核となる主張をサクッと見ていきましょう。

斎藤氏は、僕らがいま直面している地球規模の危機は、資本主義が引き起こしたものであり、この資本主義を廃止し、新たな形のコミュニズムへと移行する必要があると主張します。その根拠として、特にマルクスの晩年の思想の変化を持ち出しております。

マルクスは元々「歴史は直線的に発展し、資本主義が成熟すれば革命が起きる」という考え方でしたが、晩年にロシアの農村共同体「ミール」の研究をする中で、「持続可能性」「共同性」「平等」「安定性」を重視する「脱成長」的な視点に転じたと解釈し、これを「脱成長コミュニズム」と名付けた訳です。

斎藤氏は、この晩年のマルクスの思想こそが、僕たちを危機から救うのだと言っているんです。面白いですね〜。

しかし、トレーナー氏は、この主張の中核に、2つの点から批判しております。

1. 「一通の手紙」に依拠しすぎている?

まず1つ目です。トレーナー氏は、斎藤氏が、たった「1通の手紙」をマルクス晩年の思想変化の根拠としてるけど、これに依存しすぎでは?と言っております。

「ザスーリチへの手紙」を巡る解釈

マルクスは晩年、ロシアの革命家ヴェーラ・ザスーリチからの手紙に対し、農村共同体「ミール」の将来性について返信しました。この手紙の中でマルクスは、「私がこの共同体を研究した結果、ロシアにおける社会再生の "てこ" であると確信した」と述べています。

斎藤氏は、この一文を根拠に、マルクスがロシアが資本主義段階を経ずにコミュニズムへ移行する可能性があると認めて、「脱成長コミュニズム」へと転向したと解釈してるそうな。

トレーナー氏の反論

トレーナー氏は、この手紙の作成までに4500語と2000語の下書きがあったものの、手紙自体は350語であったということから、マルクス自身が「ミールの可能性」の解釈にまだ苦労していたを示唆すると指摘していると言います。(言いたいことをグッと堪えたというのか、洗練されたというのか、素人の僕にはこの解釈は難しいですが)

そして、トレーナー氏から見れば、斎藤氏の解釈は「明らかに誤っている」と断罪しております。以下にその理由をまとめてズドンします。

  • 「てこ」の解釈の曖昧さ
    → マルクスが「ミールが社会再生のてこである」と述べたとしても、それが「革命の主要な推進力となる」という因果関係を意味するのか、単なる「モデル」や「目標」を意味するのかは不明瞭。

  • 資本主義発展の「必要性」を否定していない
    → マルクスが、資本主義から社会主義への移行には、資本主義の成熟 (技術の近代化) が必要であるという中心的な主張を、この手紙で否定した証拠はない。
    これに関しては、スミスさん(2024)も、「資本主義がある程度の発展段階を経て初めて、より豊かな社会主義社会への道が開かれる」というマルクスの従来の考えを支持していると述べています。

  • 「脱成長コミュニズム」の定義の欠如
    → マルクスは、斎藤氏が主張するような「脱成長コミュニズム」を明確に定義した証拠はない。

つまり、1通の手紙から、ロシアにおけるローカルな農業共同体の可能性が示唆されておりまして、斎藤氏はそれを「脱成長コミュニズムいけるでこれ」と定義したけれども、それは拡大解釈じゃねえかと言っているわけですね。

次にトレーナー氏は、斎藤さんが提唱する「脱成長コミュニズム」自体にも批判をしております。

2. 「脱成長コミュニズム」の具体像が不明瞭

トレーナー氏の第2の批判点は、斎藤氏が提示する「脱成長コミュニズム」の具体的な「形」と「機能」がほとんど説明されていない点です。

抽象的な主張の羅列

斎藤氏は、ロシアの農村共同体「ミール」に見られた「安定性」「共同性」「平等」「持続可能性」といった要素を頻繁に引用していますが、「それが具体的にどのような社会を形成するのか」といった詳細が語られていないぞとトレーナー氏は指摘します。

  • 国家は存在するのか?

  • 大都市や重工業が存在する工業社会なのか?

  • 小さな自律的コミュニティの集合体なのか?

  • 統治は権威主義的なトップダウン方式なのか?

  • アナーキズムのようなボトムアップ方式なのか?

といった、多くの疑問に答えられていないよと言います。

『人新世の「資本論」』の中での1つのキーワードとして「市民営化」というものが挙げられていたかと思います。これは、再エネなどの社会的基盤に関しては、利益を追う企業でも、規模の大きい国家でもなく、その地域の市民が地域に合わせて運営するという形だったかと思います。なので、「3. 小さな自律的コミュニティの集合体」に近いかなと。

社会システムの管理のための「1. 国家は存在する」けど、「4. 権威主義的」でもなく「5. アナーキズム」でもない、という曖昧な位置付けですね。だからこそもっと詳細に定義して欲しかったんでしょう。

「脱成長」との乖離

トレーナー氏は、斎藤氏がなぜマルクスの思想に「脱成長」という言葉を適用するのかも不明瞭だと述べています。トレーナー氏の解釈によると、マルクスは、資本主義が農業にもたらす破壊的な影響を懸念して「ミール」に注目しましたが、それは「ミール」が農業に破壊的な影響を及ぼさない安定性と定常経済に感銘を受けたからだと言います。

つまり、マルクスは「ミール」のような低い生活水準にまで縮小する必要性については言及していないというわけです。高い生活水準を維持する社会であっても、「ミール」の4つの特徴 である「安定性・共同性・平等・持続可能性」は存在しうるため、斎藤氏がマルクスの思想を「脱成長」とレッテルを貼る正当性はない、とトレーナー氏は主張します。

また、斎藤氏は、著書の中で脱成長コミュニズムの要素として以下の5つを挙げています。

  • 使用価値に基づく経済への移行

  • 労働時間の短縮

  • 画一的な分業の廃止

  • 生産過程の民主化

  • エッセンシャルワークの優先

これに対してトレーナー氏は、これらはいずれも「脱成長」とは関係がないと言います。これらは急速に成長する経済でも達成可能であると指摘して、混乱を招くと主張しております。

ここはトレーナー氏の説明が少なかったのでなんとも言えません。確かに以前解説した脱成長の定義、「物質とエネルギー使用量の計画的な削減」にがっつり当てはまるのは「労働時間の短縮」だけですかね。マルクス的には「使用価値経済への移行」ががっつりで、資本の再生産を止めることにつながるので脱成長的ですよね。

ここは具体的な政策すぎて、ビジョンとどうつながるのかが混乱するって感じなんですかね。

代替案「よりシンプルな生き方(The Simpler Way)」

さてここからは満を持してトレーナー氏の代替案パートです。彼は斎藤氏の「脱成長コミュニズム」の説明は不十分であるとしながらも、「正しい方向に向かっている」と評価しています。

そして、自身の提唱する「よりシンプルな生き方(The Simpler Way)」こそが、その具体的な代替案であり、多くの持続可能性の活動家が支持する「脱成長コミュニズム」の一種として見なすことができると主張します。さっきまでボロクソ言ってたのに急にいいやつ感出してきてます。

さあ以下にトレーナー氏が描く「よりシンプルな生き方」の社会をズドン。

徹底した地域主義と自給自足

ほとんどの人々が、高度に自給自足的に、自治的で小さな協同コミュニティで暮らす。地域経済は、利益や市場原理、成長に駆動されず、地域の人々が管理する。また、現在の豊かな国の一人当たりの消費水準は、現在の20%未満に削減される必要がある

共有と協働

多くの商品やサービスは、共同所有の果樹園、森林庭園、池、コミュニティワークショップなど、コモンズ(共有資源)から自由に提供される。生産は、工芸や趣味のような手段で行われ、楽しみと創造的な活動となる。

徹底した参加型民主主義

意思決定は、タウンミーティングや徹底した参加型民主主義によって行われる。雇用と貧困は解消され、コミュニティは誰もが十分な生計を得られるように保証する。人々は週に数日だけ働き、残りは自由な活動に充てる。富や貨幣、財産は重要ではなく、個人の幸福はコミュニティ全体の機能に依存する。

文化的な変革が不可欠

このような社会は、人々が根本的にシンプルなライフスタイルやシステムを受け入れる文化的な変革なしには機能しない。これは、中央集権的な国家によって強制されるのではなく、地域レベルでの草の根の活動から生まれる。

僕は、別に脱成長コミュニズムとあんま変わらないなあと思いましたがいかがでしょうか。確かに具体性が増したような気もしますが、そんなに増してない気もしております。

トレーナー氏は、この「よりシンプルな生き方」が、斎藤氏の議論では欠けている「資源制約の規模」の視点を盛り込んでいるから優れていると強調します。

例えば、スーパーマーケットで買える卵の金銭的・エネルギー的コストは、村の共同体で生産される卵の100倍以上であることが研究で示されているそうで、小規模な生産と機能の統合は、非常に大きな資源の節約につながると言います。

まとめ

というわけでいかがでしょうか。個人的には、トレーナー氏と斎藤氏で「ザスーリチへの手紙」の解釈が違うことが論点で、他は共通点めっちゃ多いんやし仲良くせえって思いました。

また、マルクスっぽくもないし、エコロジー経済学的な脱成長っぽくもないしってところで混乱が生まれているのもまた理解できました。斎藤氏が使う「コモン(ズ)」に関しても、この分野の第一人者エリノア・オストロムの系譜に載っていない感じがするので、けっこうさまざまな角度で批判があるのも納得できます。

ただ、ドイツ語の「クリティーク」には「相手の論を踏まえて、自分の見解を付加していく」って建設的な意味合いがあるよって、今読んでる佐藤優さんの本に書いてあったので、そういう意味で、かなり学者的だなあと思う次第です。ではまた。

  • ザスーリチへの手紙に「農村共同体(ミール)が社会変革のてこだ」という記述があるが、それを脱成長コミュニズムっていうのは言い過ぎでは?

  • マルクスは「脱成長コミュニズム」を明確に定義していないし。

  • また斎藤氏の「脱成長コミュニズム」の定義が曖昧で混乱を招く

  • 小さなコミュニティでの「よりシンプルな生き方」が重要

参考文献

  • Smith, T. (2024) Technology, Ecology and the Commons – Huber and Phillips’ barren Marxism. Resilience, March 26.

  • Trainer, T. (2024). A critique of Saito’s Slow Down. real-world economics review, issue no.109.  

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